開拓について多くの人が見落としがちなことは,「最初は何もない」ということである.原野や森林だけの場所には,到着したその日の食事も,その夜の寝床も何もない.荒縄一本,ムシロ一枚でさえ,土地を切り開いて耕し,田んぼを作って稲が収穫できるまで,自前では調達できない.その間必要な物資は,すべて本国から輸送し続けなければならないのである.だからこういう事業は農民だけではできない.前線基地を設営し,そこへ絶えず兵站輸送を行うという,軍事作戦と同じ能力が必要で,また,費用も膨大である.それができるのは,政府か大藩だけだった.前回の話に戻るが,食い詰め者がふらふらやってきてどうにかなるものでは到底なかった.
そういう移民の中に,旧彦根藩の出身の飯田信三(敬称略/読みはのぶぞう、しんぞうの二通りあり,不明)という人物がいた.農民ながら戊辰戦争に参加し,戦後は藩命により農夫頭として,北海道の門別の開拓にあたった.前回書いたとおり明治4年に,開拓地の所有者を現地居住者に限るという開拓使令が出ると,武士は帰国し,信三がダミーの所有者として残った.その後も不漁,凶作などの試練を乗り越え,藩から土地を買い取り,漁場,牧場,農場の経営や,外国から買い取った蒸気船による函館航路を開設した,門別開拓の祖である.
飯田信三は若い頃は農家を嫌って侠客の仲間入りをし,戊辰戦争では幕軍に捕らえたれて牢破りをして,敵中突破して戻るという,歴史ドラマ並の武勇談を残している.彼については,子孫の方による伝記出版をお手伝いしたことがあり,史料があるので,またいつか書くかもしれない.
札幌と岩内には「前田」という地名があるが,これはその名の通り加賀藩による入植地である.その時の開拓団のリーダーだった家老の子孫の方から,渡航の頼みの綱だったという,蝦夷地図を拝見させてもらったことがある.蝦夷地は細長いサツマイモのような形で,樺太とサハリンが別々に描かれているという,不正確極まりないものだった.当時,伊能忠敬,間宮林蔵等によるほぼ正確な地図はあったが,トップシークレットであり,加賀藩でさえ手に入れることはできなかった.手に入るのは実測地図ではなく,どの地点からどちらへ何里というような,文字による説明を作図したものだった.加えて松前藩が,幕府の徴税を恐れて,蝦夷地の実際の広さを狭くゴマかしていたため,そんなデタラメな地図が流布していた.そんなものを頼りに,未知の大地をめざしたのである.
国は,大きな問題の解決に,しばしば北海道への移民を利用してきた.一気に引揚者が増えた戦後にも,道東の,現在の別海町あたりの原野への入植事業が実施されている.今でこそ酪農王国だが,農作物の栽培限界に近い過酷な場所である.
以前,私の父の知人一家が東京の品川に住んでいて,私も上京の際に宿をご厄介になったりしていた.その家にお婆さんが一人いて,戦後夫婦でこの移民団に参加し,挫折して帰ってきたという経歴の持ち主だった.息子とポンポン軽口や悪態を付き合うような,いかにも頭の冴えた江戸っ子のお年寄りなのだが,父はなぜかこのお婆さんに会いたがらなかった.聞けばこのお婆さんは,普段はカクシャクとしているが,父の顔を見ると
「北海道から来たんだね,寒かったろう,寒かったろう」と言って,ストーブをつけ始める.それがたとえ真夏でも,父の顔を見て「北海道」という言葉が浮かぶと,何かのスイッチが入って,自分の体験が蘇ってしまうのだ.移民・入植の苦労がどれほどのものだったか,言葉以上に伝わってくる.
次回「ブラジル式コーヒードリップ法」(2/6公開予定)
乞うご期待!
僕が来た当日は,布団も無く,住まいも無く,寒い1月30日で,雪の札幌でした。その日に住まいを歩き回って探し当て,円山近くに6畳一間のアパートの契約をしました。布団はチッキで送ったのですが後から到着予定でした。木造の建物は隙間だらけで二重窓の間が冷蔵庫代わりでした。衣類は着たきりですから,新聞紙をコートの下に入れて壁に背中で持たれて眠りました。寒くてよく眠れなかったので翌日狸小路1丁目に並んだ質流れ店の1軒でストーブを買いました。火は点いたのですが,気がつくと不完全燃焼で部屋中煙で顔まで真っ黒になりました。そのまま気づかず入れば命取りでした。それでも手持ちのお金が3万円ほどありましたからストーブも買えたわけです。身の回り品はギター一本でした。それから毎日大通公園の雪像作りの見学に行ったり、浪人たちが集まる喫茶店で暖をとり一杯のコーヒーでギターなど引きながらフォークソングか何かを口ずさんでいたものです。北海道は寒かったですが,人情が厚く,たくさんの人々に助けて貰い,現在の僕がいます。ここが一番長く住んだ土地になりました。本籍も北海道に移して,今では完全な道民になっています。