日本の家紋には動植物から自然現象、家財道具まで様々なモチーフがあるが、北海道にちなんだものはない。開拓使設置から150年以上経つのだから、北海道にちなんだ家紋があってもいいと思う。そこで将来、伝統的な家紋に紛れ込んでくれることを期待して、蝦夷家紋を作ってみた。第三作は「活雲丹」である。
毛の生えた梅鉢紋に見えるかもしれないが、生きたウニを割って食べたことのある人なら合点が行くと思う。真ん中の五角形の部分は「アリストテレスの提灯」とも呼ばれる「口器」で、それを卵巣がとりまく。外殻を短い針が覆い尽くす形は、北海道を代表する海の味覚「エゾバフンウニ」を割った様子である。加賀藩前田家所縁の方々には少々ご不快かもしれないが、既にある図案にちょっと手を加えた家紋も数多くあるので、ご容赦願いたい。
余談だが、道内には「前田」という土地が何箇所かある。いずれも明治時代に加賀藩からの入植者が開拓した土地だ。未開の森林や原野を切り開き、農業、漁業、林業などの生産が軌道に乗るまでには、莫大な費用がかかる。目の前に森があっても、その日寝泊まりする家屋の木材は運び込まなければならず、藁縄1本、ゴザ1枚、自前で調達できるようになるまでには、土地を開墾し、米が収穫されるまで数年かかる。その間の衣食住はすべて本国から輸送し続けなければならない。それができたのは、明治政府直営の屯田兵か、加賀藩などの大藩の開拓団である。
加賀藩などは幕末の鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争まで、官軍側で戦い幕府軍に勝利したものの、明治政府からの褒賞はなく、代わりに蝦夷地開拓の権利を与えられた。蝦夷地開拓は、費やした戦費を回収するための、藩の命運をかけた大事業であった。そのため、莫大な費用と選り抜きの人材が投入された。例えば現在の共和町前田地区の開拓団は、加賀藩の家老に率いられて来たという。その苦労話を、共和町に住む家老の子孫の方からお聞きしたことがある。
加賀藩士が切り拓いた土地は、現在道内有数の農業地域となり、「らいでん」のブランド名を冠した米、スイカ、メロンなどで知られている。積丹に近いため、もちろんウニもうまい。
奥尻が大震災と大津波が来た前の年でした。取材の合間に鍋鶴岩の傍の海水浴場でウニを捕って石で割って食べていると、見回りのオジサンが来て注意されるかと思いきや「あんた達、あそこの岩の下にある網袋を捕って来てくれないかなぁ」と。そこで浅い所にウニの密漁者が隠していた網袋を見つけてあげました。「ところで僕たちのウニも密漁ですよね?」と。「いやぁ~2個や3個ならいいよ!」と。無罪放免されました。数日泊まった民宿ではウニ三昧で3~5年分のウニを食べました。ので、その後は、お寿司のウニなど、さほど欲しいと思わなくなりました。
時効の話をふると、いろいろ出て来る。これぞ豊かな人生を過ごした証ですね。輸送技術が発達しても、今でも寿司屋のウニは、海で食べるのにはかなわないでしょうね。
いいところ行ってますね。奥尻は行ったことがありません。あのあたりのウニは文句なしでしょう。子供の頃は、張碓の海で自分で潜ってとってました。当時も禁止されていましたが、時効ですね。
割って食べました。奥尻でも、積丹でも。海水の塩気と混じって美味かったですね。しかし・これが家紋になるとは思いませんでした。面白い発想ですね。この次は?なんでしょう?楽しみに成ってきました。