我々の世代は、子供時代から学生時代の、最も知識が身につく時期にインターネットがないという、大きなハンデを負っている。身近な図書館では蔵書が限られていて、どんな本があるのかの検索も、子供にはできない。何かの知識を得ても、専門分野以外はさらに正確な情報があるかどうかさえもわからず、せいぜいテレビで特集されたものについて、多少突っ込んだ知識があるという程度なことが多い。
1953年のペリー来航も、アメリカが突然軍艦を押し立てて訪れ、開国を迫ったと思っていた。今でも外国資本による大型店の開店が「黒船」に例えられたりするが、実際は「突然」ではなく、ちゃんと事前に入港を知らせる書状が送られている。それどころか、アメリカからはペリーの9年前に通商条約の締結を求めて使節団が送られていて、幕府に断られている。
また、ペリー艦隊の航路もアメリカから太平洋を渡ったのではなく、イタリア、アフリカ南端、インド、シンガポール、マカオ、香港、上海などを経て、沖縄から浦賀に入港している。幕府への書状もマカオから送っている。庶民は驚いたかもしれないが、幕府にとっては予定通りの行事だった。黒船が軍事的な脅威だったかといえば、4隻程度では全く問題にならない。国内には無数の大砲や鉄砲、軍船があったし、黒船軍が本気で暴れても、数日程度しかもたなかっただろう。
では何の意味もなかったのかといえば、公式訪問であることを示すという重要な意味があった。例えば江戸時代でも、清国、オランダ、ポルトガル、イギリスなどとはそれなりの交流があった。だが、それらの国王の親書が来たからと言って、日本では何の権威もないしそもそも本物かどうか確認する方法もないので、それによって外交方針を変えていては、為政者とは言えない。対して黒船は、個人では所有できない軍艦である。いわばアメリカの大統領専用機、エアフォース・ワン(空軍所属)が来たようなものだ。国を挙げての本気の申し出であることを示すには、最適な方法だったといえる。
当時の国際情勢も、ちょっと検索すると意外な事実が見えてくる。ペリー来航時のアメリカの人口は2300万人だが、日本人は3000万人以上いた。アメリカは技術先進国ではあったが、日本のほうが大国だった。その後はいざしらず、ペリー来航は「大国アメリカのゴリ押し」と言うより、順当な訪問だった。
ちなみにペリー来航の目的は、アメリカの捕鯨船への補給基地の開港である。当時のアメリカでは、産業革命が起こって長時間労働が増え、照明用の鯨油の増産が必要となったのだが、これは不思議なことだ。効率的で生産性の高いはずの蒸気機関で生産するようになって、労働時間が増えたのである。
考えてみれば、大規模な設備投資をすれば、機械をフルに稼働させて回収しなければならなくなるのは当然のことだ。だから「IT化を進めれば、作業が効率化し労働にも生活にも余裕ができる。人間の仕事が機械に奪われるかもしれない」などというのも、たわごとだろう。