男衾三郎絵詞

鎌倉時代、武蔵の国に男衾三郎(おぶすまさぶろう)という武士がいた。この男は、侍、百姓、僧侶など、屋敷の前を通る人間を誰彼構わず殺して、塀に生首を晒すことを日課にしていた。めちゃくちゃな話だが、その様子は国宝「男衾三郎絵詞」に残っている。これを取り締まる者はいなかったのかといえば、現在の警察に当たる地頭が男衾三郎当人だった。

国宝男衾三郎絵詞

警察はないが裁判所だけはあって、それが鎌倉幕府だったのだが、そこでは例えば土地を巡る争いなどの訴えについて、互いの証拠と言い分により、どちらが正しいか裁定を下した。しかし、負けたほうが居座ったとしても、幕府が兵隊を出してはくれなかった。裁判に勝った側は負けた側の土地に攻め込む大義名分は得るが、あくまでそれは自分でやらなければならない。居座り組に実力があればいつまででも居座ることができる。だから男衾三郎を征伐したい者には、許可を出すかもしれないが、やるのは本人次第で、負ければ返り討ちだ。鎌倉、室町時代の幕府とはその程度の存在だったそうだ。

これが戦国時代に近づくにつれて、領主が領内のもめごとの裁定を下し、さらに兵を派遣してケリを付けるようになった。地域が分断された分民衆と為政者が近くなったおかげだが、こうなると隣国との争いが激化する。川の上流と下流が別な国で、そこに日照りでも起これば、もめて当たり前で、両方の領民がそれぞれ領主に訴え出ればそこで戦が始まる。

そんな状態を脱却するには、全国を単一の武力で管理しなければならない。そう考えたのが「天下布武」を唱えた織田信長で、その後秀吉が全国を武装解除し、家康が秩序維持の体制を作り上げた。

現代の日本は、武力による平和の延長線上にあることは忘れられがちだが、浅間山荘のように現代の男衾三郎が現れれば、武装した警察が出動してたちまち排除してくれる。また、世界規模の戦国時代もどうやら通り過ぎ、現在は時折現れるミニ男衾を締め上げてやれば良いだけになった。武力というのは扱いの難しいものだが、人類は少なくとも歴史に残ってる範囲では、なんとかうまくつきあって文明を進化させてきたと言える。

2 thoughts on “男衾三郎絵詞

  • 6月 3, 2019 at 11:46
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    泣く子と地頭には敵わぬの名の通りですね。無法地帯と言えば、古代日本に限らず世界各地で見られた現象ですね。アメリカの西部劇でのインディアンとの闘いや南北戦争などを経て今のアメリカが有るのでしょう。今でも拳銃を持っていますから怖いですね。

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  • 6月 3, 2019 at 06:23
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    理屈とか教養とか品格とか知識とかが全く通用しない暴力の世界では強いか弱いかしかありませんね。幾ら正しくても強者の論理には敵いません。戦争はお互いが虚勢を張って戦いますが、いずれは決着するし、勝てば官軍負ければ賊軍と言う訳ですから勝者に従うしかありませんね。日本もアメリカに従って来たわけですが、そろそろそのお勤めも時効なのではないでしょうか。

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