タイトル画像の話 / 無題

またしてもタイトルが「無題」になってしまった。記事のことを考えると、何かしらの具体的なタイトルが欲しくはあるのだが。

タイトル画像 / 無題

画像を作る時、最初からタイトルやコンセプトを決めつけてそれをめざす場合もあるが、なんとなく造形物をいじっていてひらめくこともある。今回は後者のほう。
近年だと、タイトルやコンセプトが最初に決めると、AIのほうができが良い場合がある。一方、ひらめき型は出来上がりを見ても言葉で説明できない。こういうタイプはAIに作らせようとしても、言葉で指示できないのでやりにくいと思う。そのへんにこれからのAI時代のクリエイティビティのヒントがあるような気がする。同じようなことを考える人は少なくないようで、今、新しく公開される画像作品の中に、リアルのペンや筆のタッチを活かしたものが多くなってきたように思う。また、AI画像では看板などに掛かれた文字が、意味のない図形になりやすい。そのへんに気がついた人が出てきたようで、手作業のレタリングやカリグラフィ作品の公開も増えてきたように思う。
本作はCG技術としてはいたって貧弱なので公開を迷ったが、AIに作らせにくいということで使うことにした。低技術、ローポリゴンCGももっと見直されてもいいと思うので。

生成AIはクリエイターに大きな重圧を与えていることは間違いないが、プレッシャーが新しい創造活動の原動力になる例も少なくない。AIに何ができるかは興味津々だが、そちらは適当なところで見切って、新たに生まれるものも見逃さないようにしたいと思う。

最近知った意外な事実

インターネットのおかげで、昔からの常識がひっくりかえることがある。歳をとっていると多くの「常識」が頭に詰まってるが、その分ひっくり返されることも多い。いわば日々新しい驚きに満ちている。これも歳を取ることの醍醐味だと思う。

本の腰巻きで見かける「重版出来!」は、「じゅうはんしゅったい」と読む
てっきり「デキ」だと思っていた。なんとなく幼稚な言い回しだとは思っていたが、コミックなどで使われることが多かったせいで、辞書まではひかなかった。一体何十年知らないままでいたことか。

鳥類はいわゆる”鳥目”ではない。
人間の近くで暮らす鶏が、視力が弱くて夜に活動できなくなるので、すべての鳥が夜に目が見えなくなると思われていただけ。ふくろうだけ例外というわけではないらしい。

日本で最初に拳銃所持を認められたのは郵便配達員。
1871年(明治4年)のことで、警察官より50年も早いという。その昔は現金封筒が多かったから、妥当だったのかもしれない。が、警官の携帯が50年後というのは意外だ。明治がそれだけ平和だったのか、それとも警官を襲っても一文にもならなかったからなのか。ちなみに現在は郵便配達に拳銃は許可されてない。

ネットのコメントでの「買い言葉」を、『コメント応手(おうしゅ)』という。
応手は囲碁将棋の言葉で、相手の手に合わせて打つ手のこと。ネット上でのコメントというと聞き苦しい罵り合いばかりのように思われがちだが、案外通なことを言ってたりする。

捗る
これを「はかどる」と読むことは最近知った。ネット上での使い回しがスラングっぽいので、読みにくい字をわざと使ってるのかもしれないが、少なくとも自分は読めなかった。漢字を知らないのは恥だが、難読漢字ばかり使うのも印象が悪い。文は人なりで教養や気配り具合まで伝わってしまうものだが、最近は変に難しい漢字を見かけることも多い。漢字変換の候補をそのまま使ってしまうからだと思うが。

ガラケー最後の日

携帯で通話すると、来年の3月で今の通信が使えなくなる旨のアナウンスが入るようになった。厳密に言うとFOMA通信のサービスが終了するということで、スマホに変えなくてはならないわけではないらしいから、ガラケー最後の日ではないかもしれないが。

私はスマホ、ガラケーを問わず、携帯通信が嫌いである。固定電話でさえ相手もわからずに呼び出されるのは愉快ではなかったが、トイレ中に携帯にかかってきたときは、どうしろと言うのだと思った。なのでPCのメールが普及し始めた頃は大喜びだった。好きな時間に送信しておき、都合の良い時間にまとめて確認して、しっかり調べたうえで返信する。双方に証拠が残って、言った言わないがなくなる。送信側も文字にするひと手間があるせいで、内容が吟味される。これぞ連絡業務の効率化、生産性の向上そのものである。日本のビジネスも進化する...。

そう思っていたら携帯メールの時代になり、メールにすぐ返信しないと怒る人があらわれ、なんだかそれがマナーのようになってきた。なんじゃそりゃ?怒るのは上司だったり顧客だったりするので、すぐ連絡が取れるアピールは営業戦略上こちらに損はないものの、ビジネス全体の生産性という点では後退だ。つまり、損をするのは上司だったり、顧客である。
まして当時、大手通信会社からインターネット前夜のVANやらISDNやらによる企業通信の取材と記事を請けていて、通信システムによる合理化と生産性向上をPRしていたのだが、他ならぬ取材チームのなかに、思いつきメールを放り込んできてすぐ返信を求める連中がいたのである。取材で何を聞いたのかと言いたかったが、これは技術や知識ではなく、世代の問題なのだと思った。

我々より先輩世代は携帯電話が大好きだった。さらにその上の世代のときに自動車電話が誕生し、一部の選ばれた人が使っているのに憧れたのだと思う。何か思いついたらその場から連絡。
「例の件は進んでいるかね。うむ結構。その調子で頼む」
かっこいい!!!という感じかな。

ちなみに私は携帯メールを一切使わないでいたら、親切なdocomoのサポートさんから、使わないならデータ通信サービスは解約してはどうかと提案され、そのとおりにした。その後世の中にはさらに通信手段が増えた。ブログ、FACEBOOK、TWITTER、LINE、あとなんだっけ?コミュニケーションツールの多様化で、武器が増えたと思う人もいるのだろうが、「火力分散愚将の常」ともいう。
で、どうしよう。新しい通信で使える最新のガラケーもあるそうだから、それにするかもしれないが、いまどきスマホにしない非常識な人間は、自分とビル・ゲイツくらいかもしれない。