Tadd’s Delight

タッド・ダメロン(1917-1965)の作曲。

このコーナーでは、パブリック・ドメインになっている古い名曲を、なるべく新しいプレイヤーの演奏で紹介するようにしてきたが、今回はあえてマイルス・デイビスの名アルバム「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」から。王道過ぎて紹介するまでもないが、私にとってこの曲とこのジャケットは、いかにも「ジャズ喫茶」だ。
とはいえ、曲名ははっきり覚えていなかった。年取って、忘れてしまっただけかもしれないが…。ジャズ喫茶ではカウンターの近くに、現在演奏中のジャケットを掲げられていて、それを手にとって見れば曲の情報はすぐわかる。が、それをすると「あいつ、マイルスも知らないのかよ」と思われそうで、なかなか手が出なかったような覚えがある。長年すり減らし続けたせいで、逆に図太くなってしまった爺ィの神経からするとしょうもない見栄だが、我ながら初々しかったなあと思う。

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6 thoughts on “Tadd’s Delight

  • 2月 16, 2024 at 14:05
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    隣の高校に優秀な3人組がいました。一人はクラリネットとギター、もう一人はトランペット、もう一人はコルネット。このほかにもトロンボーンの名手も。或る日校内放送で私が校長室に呼ばれました、何事か?と校長室に行くと呉の航空自衛隊の音楽隊の関係の方が居て私を勧誘に来たらしいのです。私は堅苦しい自衛隊は気が進まなかったので隣の高校の二人を紹介しました。彼らは入隊し最初の頃は楽器より基礎訓練で迫撃砲の重い台座を運んだり歩腹前進やらグランドで小銃を担いでランニングばかりと手紙でぼやいていました。が最終的に演奏もして辞めました。コルネット達人は証券会社に鞍替え。もう一人はトランペットを吹くクラブ専属バンドマンになりました。ギターの得意なもう一人は私と大阪で暫くの間クラブのバンドマンのアルバイトをしました。音楽もピンキリで皆んな途中で挫折します。東京から流れて来たバンドマン仲間を見て自分の行く末に当てはめてみたものです。大阪を嫌い、バンド仲間3人で北海道に来て狸小路の楽器店でローンを組み、楽器一式揃えたものの練習場も無く仲間割れしたりで、違約金を当時5万円程払って全て私が返却し、ようやく足を洗いました。それからは未だに少し音楽アレルギー気味ですね。音楽は聴く方がいいです。余程のテクニシャンなら別ですが。

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    • 2月 16, 2024 at 14:35
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      日本ではミュージシャンが不遇かもしれませんね。シカゴでジャズメンをやってる知人は、スーパーの倉庫係と兼業です。どちらの収入が主なのかは、そのときによるみたいですが、声がかかるとクラブへ行き、けっこう有名なミュージシャンとも演奏しるようです。そういう生き方で満足していて、逆に里帰りすると日本人は目が死んでいるように見えると言ってました。

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  • 2月 16, 2024 at 06:22
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    東京は新宿のジャズ喫茶は喫茶店ではなく、いわゆるお酒を呑めるクラブのような形式のだだっ広いホールに本格的なステージがあって自由席でした。何故か当時の東京では、この形の生演奏のクラブをジャズ喫茶と呼んでいました。高校生らしき観客などは居ませんでしたが、当時は怖いもの知らずで新宿だろうがどこだろうが私服で堂々と、しかもたった一人で出入りしていました。今、思えばポン引きやら怪しい人に声を掛けられたり、タクシーは田舎者と見れば遠回りしようとして、道路を知っていた高校生の私が道案内もしましたね。当時の新宿にはそんなステージのある店は幾つかあって、或るところではロカビリーなんて平尾氏や山下氏なども出ていましたし、坂本九などはステージの淵で足をブラブラさせて歌っていましたが、余り好きでは無かったので、やはりボーカルより生演奏にハマりました。若い頃三重から家出して単身新宿でバーテンダーの経験のあった義兄に連れられバーでジンフィーズなどで酔っぱらって道路が逆さに見えた事も有りました。今の新宿を考えればゾッとしますね。福井は田舎街の全寮制の高校でしたから帰って早速、東京で聴いた曲をラジオに女生徒宛に匿名でリクエストも『テイクファイブ』までは良かったのですが、それがあのお気に入りの『モーニン』だった為、局アナのコメントでアドリブが長すぎるのでとカットされてしまいました。当然と言えば当然ですね。隣の高校や中学の吹奏楽部に声かけしてビッグバンドの真似事も楽しかったです。譜面台を隠すボックス型のスタンドはベニヤに塗装して私が十数個手作りしました。バンド名ロゴやラメも入れてお互いの文化祭に出て、派手な演出で受けました。教師曰く『勉強嫌いでも〇〇はトランペットを吹ける様になった。皆も何か一つでも身につけるように』と、褒められたのか??。

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    • 2月 16, 2024 at 09:12
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      「ジャズ喫茶」という名前のクラブだったんですか。これまで聞いてた当時の話が、腑に落ちました。ビッグバンドの揃いの譜面立て、格好いいですよね。スコアは手に入りましたか?音楽に詳しい先生がついてなければ、演奏まで持ってくのも大変だったでしょうね。

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  • 2月 15, 2024 at 05:49
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    街中にいろんなジャンルの音楽を聞かせてくれる喫茶店もありましたね。モダンジャズ全盛のころは有名ミュージシャンも多数来日してホールコンサートも何度か行きました。京都で聴いた時はさすがに観客も通な人ばかりで感心したものです。同時に比較的ラテン音楽なども好きでしたし、若い時の音楽の聴き方もジャズばかりでなくカンツオーネありマリアッチありアルゼンチンタンゴありシャンソンあり、フォークソングからGSまで何でも聞いたものです。ジャズへの最初の入り口は何とソノシートのディキシーランドジャズでした。当時はビートルズが持てはやされていたのですがあの音楽にはどうしても馴染めず、モダンジャズに興味を持ち専門誌も定期的に買っていました。高校生の夏休みには毎日毎日新宿のジャズ喫茶(ステージ演奏の)に入り浸っていました。東京キューバンボーイズなどのビッグバンドの生の迫力に圧倒されたものです。そこは日本のプレイヤーだけでしたが音楽の中に浸っているのが最高でしたね。マイルスなどはジャズ界の神的存在ですから生では聞いていませんが友人の部屋でLP盤を聞かせて貰いましたが、今は貴殿のパブリックドメインで聴かせていただいています。感謝です。

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    • 2月 15, 2024 at 09:06
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      ジャズ喫茶店で生演奏はいいですね。私の環境では、生演奏はバーしかなかったので頻繁に行けませんでした。マイルスのステージはこの動画の時代よりだいぶ後なので、フュージョンスタイルの演奏になってしまい正直苦手でしたが、同好の仲間と「聴くのではなく、生マイルスの参拝に行くのだ」と言いながら観ました。気難しいという噂で、実際ステージで挨拶もしなかったですが、マイルスデイビス自伝によると日本公演は終始上機嫌だったそうです。黒人差別がなく、ジャズメンでもガーシュインのように応対してくれたかららしいです。ビートルズはやや全盛期を過ぎた頃から聞いたので、熱狂的な人気者というより、ポピュラー音楽の定番をいくつも世に送り出したグループという感じでした。先日ネットでチェックしたら曲はたいてい知ってました。同年代人は、レッドツェッペリンなどを聞いてましたね。

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