福井県の永平寺で、修行僧が体験修行中の女子高生のおしりを触る事件があった。メディアは神聖な場所で何事だ、寺は責任を取り、犯人は追い出してしまえと言わんばかりだ。さて、面白いことになったと思う。
永平寺の山門(正面入口)には、「葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず<生臭物や酒を持ち込んではいけない>」という掲示がある。では、こっそり酒を飲んだ修行僧はどうなるか、追い出されるか、程度に応じて罰を受けるのか。実はこの問いに考え込んでしまうのは現代人だけで、江戸時代の人間なら、だれでもすぐ答えられた。
「そういう輩のための修行の場だろう」と。
仏教の修行場は、品行方正な人間を集めて何かをするところではなく、煩悩にまみれた者を真の仏教徒である僧侶に育てる場だ。なので江戸時代なら、女性が参拝以外で入ることはできないから、まず同じような問題は起きない。修行途中で煩悩まみれの若い男たちのなかに女子高生を放てばどうなるかわかりきってるからで、そういうのを「知恵」と言った。しかも初歩的な知恵で、仏教の知恵はもうちょっとハイレベルだ。でも現代なら男女同権がどうとかで、女人禁制にはできないだろう。そこで公式謝罪がどうの、刑法がどうのという話になりかねない。そういう状態を「知恵が回らない」と言う。
さらに江戸時代なら、起きたとしても、寺がより一層修行に専念させるといえば、相手も納得する。僧侶に対するリスペクトがあるからだが、伝統的な仏教文化なんぞクソ喰らえの時代に、果たして永平寺はどう答えるか。さらに言えば、煩悩まみれの現代人はどこで修行すればいいのか。現代版禅問答は、なかなか難しい。
僧侶と言えども人間ですから煩悩が無いわけでは無く、有って当然ですね。修行僧なら場所と状況を弁えて居ればそのような事件は起きなかったでしょうね。問題の20代の県外からの参加修行僧は事件発覚後除籍処分されたそうですが、煩悩を諫める修行とは言え、血気盛んな男性僧侶には耐えきれない修行だったのでしょうね。最初から修行体験させる以前の問題とは言え、言い換えれば、そんな場に女子高生を14名もの寝泊体験修行と言う教育方法にも意味があったのでしょうか?それとも寺側の要請で故意に煩悩と戦わせるがための計画?だったのでしょうか。むしろシスターのいる修道院でも良かったのではないでしょうか?。動物園のライオンの前に兎を差し入れるほど危険な教育ですね。
こういう問題こそ、名僧が出てきて知恵の塊のような言動で周囲を納得させ、本人をかばって修行を続けさせるのではと期待してたんですがね。
ところで私は西遊記が大好きです。弟子の3人だけでなく馬さえもならず者や大罪人で、三蔵(当時は玄奘)もエリート意識に凝り固まって人の言うことを聞かない若造。天竺への道中でも様々なトラブルに出会い、八戒などは修行中なのに暴飲暴食、女にもちょっかいを出したりするしまつです。ともあれ天竺にたどりつき仏典を手に入れ、弟子もそれぞれ名僧になるのですが、実は仏典より旅そのものが宝なのだと言ってるのが今ならわかります。岩波文庫版以外ではそこまで描かれておらず、カメハメ波だったりしますが。