子供の頃祖父から、太平洋戦争の終戦間際、グラマンが飛来して家に数発打ち込まれたと聞かされた。地面にめり込んでいたという銃弾をもらったが、銅で包まれた銃弾は、先端が少し曲がっていて3~4センチほどの長さがあり、拳銃弾よりずっと大きかった。

私も子供だったから、グラマンが単機で飛んできて銃撃していったようなイメージを持っていたが、ChatGPTにたずねると、1945年の7月14日と15日、札幌を含む道内各都市に組織的な空襲があったという。札幌空襲は、3月に東京大空襲、同じ7月に全国各都市で同じような空襲があり、8月には広島、長崎の被爆と続く中では埋没気味かもしれないが、私にとっては祖父が戦闘機に狙われ命からがら生き残った、下手をすると自分も生まれなかったという大事件である。今頃ようやくぼんくら孫にも言わんとするところが理解できたわけである。そこでわかったことだけ、記しておく。
◆ 札幌空襲の経過
1945年7月14日(第一波)
米海軍第38任務部隊(TF38)が千島列島の東方沖に展開。
空母からF6Fヘルキャット、F4Uコルセア、SB2Cヘルダイバー、TBMアベンジャーなど約1,000機を発進させ、北海道各地を攻撃。
主目標は 鉄道・港湾・石炭・製鉄関連施設。
札幌では
手稲の石炭関連施設や工場、鉄道貨物駅(苗穂、桑園付近)が爆撃・機銃掃射
市街地や住宅地でも散発的な機銃掃射
午後には再度飛来し、札幌駅周辺・軍需工場を狙う。
1945年7月15日(第二波)
前日に続き大規模な攻撃。
札幌市内の鉄道施設・工場が再度攻撃され、民家も巻き込まれる。
低空での機銃掃射が盛んに行われ、走行中の列車、道路の車両、市街の建物や住宅地の屋根・庭にまで弾丸が撃ち込まれた。
◆ 被害状況
札幌市では死者250人前後(当時の記録によって差あり)、負傷者多数。
焼失・損壊家屋は数千戸に及ぶ。
特に札幌駅周辺や苗穂地区(鉄道工場や操車場)での被害が大きかった。
市中心部の民家でも「屋根や畑に弾痕」「家の壁に機銃弾が突き刺さった」という証言が残っている。
◆ 米軍の狙い
北海道は 石炭供給地・軍需工場・港湾輸送の拠点であり、ソ連参戦を見越して戦略的重要性が高まっていた。
特に室蘭の製鉄所や小樽・苫小牧の港湾を叩く狙いがあり、札幌は鉄道の結節点・行政中心地として攻撃対象に。
◆ 札幌市民の記憶
B-29による焼夷弾爆撃は札幌にはなかったため、「低空で襲ってくる艦載機」が初めてで衝撃的だった。
「グラマン(米戦闘機)が畑をなぎ倒すように撃ってきた」「逃げ惑う市民に機銃掃射が浴びせられた」という証言が多い。
◆ まとめ
札幌空襲は1945年7月14・15日の2日間、米空母艦載機によって実施された。
出撃元は千島列島沖の米空母部隊(第38任務部隊)。
標的は鉄道・工場・輸送インフラだが、民家や市街地も広く被害を受けた。
死者約250名、家屋数千戸が損壊し、札幌では最大の戦争被害となった。
子供時代のぼんやりした記憶が、実は大きな事件が関わっていた。ささいなことでもAIに聞いてみれば、誰でも自分の知らないドラマに出会えるかもしれない。

全国各地で空襲はあったんですね。特に軍需に関係の有るところが主目的なのでしょうが、私の田舎では山中に不発の機雷が落とされました。山の向こうの軍港の有る敦賀湾や小浜港が目標だったのでしょうが少しの狂いで海に落ちずに山に落下したのでしょう。後に発見され爆破するのでガラスなど割れぬようにとお触れが出て和紙をバッテンにしてガラスに貼りました。その残骸は何故か?小学校の校内に展示されていました。戦争の恐ろしさを考えるには役立ったと思います。当時は戦闘機グラマンなどから一般人に機銃掃射が有ったとも耳にしました。戦時中を知って居る姉たちは東京で学校に通うのに毎日眼だけが見えるゴムマスクを入れた肩掛け鞄を持って通学したらしいです。毒ガスへの対応だと思います。北海道は炭鉱や製油所、製鉄所などもあって軍港の小樽や室蘭、函館などと、軍需関係施設を狙ったのでしょうね。ただ、札幌は当時から大都市だったとは思いますが軍事関連と言えば知る限りでは月寒当たりの司令部くらいですね。理由は北海道の中心都市だからでしょうか。
けっこう大掛かりですね。空母に千島まで来られてしまった段階でお手上げだったでしょうが、米軍の航空機や飛行士の被害も若干あったようです。