今の人,特に畑違いの人には全くわからないかもしれないが,昔は印刷物を作る際には,版下(はんした)というものが必要だった.版下は印刷物と同じサイズのケント紙に,写真部分を除いた文字だけを貼り付けたもので,専用カメラで撮った後に薬品処理して印刷用の「版」を作った.文字は,指定したサイズで白い印画紙に黒で印字されてきたものを,デザイナーが切り離してケント紙に貼り付けていた.印画紙から切り離した文字を,曲がったり間隔がバラけたりしないよう貼り付けていくのだが,非常に熟練を要する作業で,これができないとグラフィック・デザイナーとは言えなかった.
見たこともない人に,言葉だけでどういうものか分かってもらえないかもしれないが,もう手元に現物がない.理屈からいうと印刷物を作るごとに使い捨てのものだが,写植を発注できない夜中に写植文字が必要になった場合とか,印刷ミスがあった場合の原因究明などのために,しばらくの間残しておく人が多かった.
以前顧客が,カレンダー用にアメリカのイラストレーターに絵を依頼したことがあった.その際,「camera ready master」を確認させてほしいという条件がついた.辞書にもでていない言葉で,国内有数の印刷会社の本社に問い合わせるまで,それがいつも作っている「版下」のことだと分からなかった.先方にしてみれば,日本の地方都市で自分の作品がどんな状態で印刷されるのか不安だったのだろう.異例なことだが,厳重な梱包でアメリカまで送り,チェックを待った.
戻ってきた返事は「Perfect!」.それまで,これほど美しい仕事は見たことがないというコメントもついてきた.日本の印刷技術は世界一と言われてはいたが,直接自分たちの仕事が評価されたことはない.だから,私自身は版下作業をする役割ではなかったが,机を並べるデザイナーの仕事ぶりがアメリカで評価されたのが,本当に嬉しかった.
現在印刷物の製作に版下を作ることはないのだろうが,作る能力のある人は大勢いる.非常に精妙な技術なので,世代交代で消えてしまう前に,なんとか転用して活かせる方法はないかと,いつも考えている.
次回「チューナーとテープ」(1/19公開予定)
乞うご期待!
