北海道は歴史が浅い。実際は古代から人間の営みは続いていたのだが、紹介されていない。だから幕軍の敗残兵や囚人や、食い詰め者が集まってできたように言われても、すぐ反論できないのだが、実際は明治の激動期に流されることなく、前向きに生きようとした、傑出した人物が無数に集まってできた場所である。だからそういう人物の足跡に、突然出くわすことがある。
関寛斎は、明治時代、道東の陸別の原野に移住し、町の基礎を築いた人物である。文政13年(1830年)に千葉県に生まれ、蘭方の医学塾であった順天堂に学んだ後、長崎に留学し、オランダ人医師から最新の医学を学んだ後鍋島藩の御殿医、官軍の軍医長などを務めた。特に戊辰戦争では、官軍・賊軍の別なく治療にあたり、軍医総監や男爵の地位も夢ではない名声を得たが、これらを捨てて徳島で30年間地域医療に貢献した。種痘を普及させるなど、関大明神とまで言われていたが、一念発起して全財産をはたいて、72歳で陸別の原野に入植した。
陸別は「日本最低気温の町」として知られている。その過酷な環境で、関は農場、牧場を経営。10年かけて陸別の町の基礎を築き上げたが、82歳で服毒自殺した。原因は農地を開放するという理想が、家族に受け入れられなかったことなどだとも言われている。関の医学思想は「養生」(健康管理と予防)、「運動」、「医療」(科学的な対処)のバランスを重視するという、現代の保健に通じる先進的なものだったという。
純粋すぎた人物だったのかもしれないが、82歳まで健康で精力的で、さらに純粋とくれば文句のつけようのない人生だと思う。こういう人物がいたというだけで、北海道は根性なしの食い詰め者の吹き溜まりなどではなく、熱い魂を惹きつけてやまない土地なのだと言いたい。