北海道、冬眠中

鈴木直道北海道知事から2月28日から3週間の緊急事態宣言が出た。コロナウィルスの拡散防止のため、特に週末は外出を控えようというものだ。これから我々は、道民ならぬ冬眠というわけである。2年前の大停電で耐久生活に慣れている、海外からの冬の観光客を減らせるなど、やりやすい材料はあった。これがテストケースであり、逐次全国の自治体に適用する、というのでなければいいが。

ろくでもない事態ではあるが、経済の停滞については、一時的なものだと思う。本気で観光振興や国際化を進めるなら、こういう事態はある程度避けて通れないのがわかったのだから、民間でも防疫関連の設備投資が進むだろう。それに、早ければ年内から、謎の出産ブームが起こるはずなので、急速な人口増で経済が大きくプラスに振れるはずだ。私は貢献できないが...。

東京(+札幌)パクリンピック

今年はいよいよ東京オリンピック。だから2月29日がある。ロゴの盗作、競技場の設計し直しなど、ここまでくるあいだに、実にいろいろなことがあった。挙句の果てにマラソン会場の変更である。これには札幌市民もただ驚くばかりで、開催にこぎつけた東京都民他関係各位の気持ちを思い、2002年のサッカーファンの気持ちを思い出せば、とても喜ぶどころではない。実のところ、何度も検索し直して、間違いではないことを確認したくらいだ。
東京の夏がマラソンができないほど暑いことくらい、1964年大会の計画時でさえ分かっていたはず。そのために10月開催になったほどだ。今大会が夏の開催になり、会場が移転することになるまでの間には、さぞかしくだらない経緯があったと思う。で、本当にやるの?

とはいえ開催に反対なわけではなく、つつがなく執り行われることを願わずにはいられないのであるから、厄落としに、どんなズルもありの「パクリンピック」を先行開催するのはどうだろう?ドーピング、フライング、男女身代わり、階級ごまかしなどは、試合前のチェックをとりやめ、各種センサー類をとりはずすだけで、自然にやらかしてくれるだろう。さらに脚にバネを仕込んだり、ドローンでライバルを妨害したり、幅跳び、高跳び、重量挙げなどの緊張の一瞬に客席で腹踊りやブーブークッションをかます。中継動画の配信ではCGも使えるかもしれない。
そして全種目、審判はプロレスのレフェリーにやってもらう。凶器攻撃だけ見つけてもらえれば、あとはルールなんて知らなくても良いのだから。


というようなふざけたことを書いて1月に予約投稿しておいたら、ここにきてコロナウィルスのせいで開催を危ぶむ声が上がってきた。もしそんなことになるとしたら…。開催月の8月とは言わず、開催決定期限の5月まででもいいが、ずっとコロナ肺炎が終息していないということになる。
人類はウィルスなどよりはるかにしぶとい生き物だから、そんなことで目に見えて人口が減ることはないと思うが、経済への打撃は大きい。それは単にオリンピックの中止による損害だけでない。コロナ肺炎がいずれ終息したときには、喉元すぎればなんとやらで、「日本はたかが(そのころには治療法ができてるから)コロナ肺炎で、オリンピックを中止してしまった国」という歴史が残る。また、どんな重大なイベントでも、伝染病が流行すれば中止してしまえばいいという、お役所好みの風潮が広がる。その風潮はエスカレートしていくだろう。子供が一人でも鼻水を垂らしていたら運動会は中止、というふうに。

ここで予言するが、もしオリンピックを中止したら、間違いなく8月までにはコロナは終息しているし、東京は涼しい風が吹き抜ける絶好のスポーツ日和が続く。そして多くの人の心に、やっぱり開催していれば良かったという苦い思いが生まれ、このまま日本はだめになるかも知れないという漠然とした諦観が社会を覆うだろう。根拠はなにもないが、人生とはそういうものだからだ。そのあきらめは年寄りには馴染み深いが、将来のある若い人には猛毒になる。

それでも中止してしまったら…。オリンピックで使うはずだった予算やネットワーク等々を生かして社会と経済を活性化する起死回生の方法が、たった一度だけある。オリンピックをやめてどうするんだ日本、という世界中の注目が集まってる、そのときにしかできないウルトラH、それが表題のパクリンピックである。(※ 64年東京大会ではウルトラCが話題になったが、今はウルトラHまであるそうだ)

トイストーリー4

トイストーリー4を観た。相変わらずの卓越したシナリオに、一層高品質になった映像が加わった申し分のない出来で、海外では名作だった3に劣らない高評価だが、日本国内での評価は大きく割れたようだ。

振り返ってみればトイストーリー1と2は、文字通りオモチャたちの物語だった。人間は大きくてオモチャにとってなくてはならないが、同時に気まぐれで時には無情な存在だ。持ち主の興味を失ったオモチャはガレージセールに出されたり、ゴミとして焼却されたり、保育園の共有物になって乱暴に扱われたり、アンティークショップで来るはずのない子供を待ちながら何年も過ごす、といった悲惨な運命が待っている。仲間の誰一人そうならないよう、非力なオモチャたちが頑張る、という話だ。

それが3では、ついに持ち主のアンディは大人になり、オモチャとの本当の別れの時が来る。1や2では、突然地響きとともに現れてはオモチャを振り回す怪獣のような存在だったが、3ではオモチャたちの将来に気を配る心優しい青年として、しっかり画面に登場する。ここで私たちは、トイストーリーというのが単なるオモチャの物語ではなく、子どもたちがオモチャを手にしながら話す、ゴッコ遊びのお話であること、そしてそれがこどもの成長にどれほど大切なものなのかに気付かされる。まさに名作との評価にふさわしい出来栄えである。

そして4では、ボニーという女の子が新しい持ち主になる。良くも悪くも普通の男の子だったアンディと違い、ボニーは始めから自分だけの「トイストーリー」を持ち合わせており、彼女の世界では、その空想が一番リアリティを持っている。おそらくこの作品の製作に携わったすべてのクリエイターも、そんなふうな子供時代だったのではないか。
また、大人になったのはアンディだけでなく、主人公のウッディも同じで、1や2のようにいじけたり、不安にかられたりすることはない。子供の物語を紡ぎ出すというオモチャの役割に気づき、それを何が何でも守ろうとする。そしてそのことが、それまで必死で逃れ続けてきた「仲間との別れ」を、自ら選択させることになる。トイストーリー4は、3とは全く違う話であり、そのことに不満を持つ気持ちもわかるが、私は、もうひとつ別な傑作として高く評価した。監督も言っている。
「なぜ4を作ったのか、とよく聞かれた。自分の子供時代を台無しにしないでくれと。それに対しては、ウッディの物語が終わっていないと答えている」

ちなみに4は、多分に続編を意識していると思われる。この作品では、焼却されたり店晒しにされたりといった悲惨な境遇ではない、忘れられたオモチャたちのもうひとつの生き方が示唆されている。子供が窮屈な環境から飛び出し、広い世界で華々しい冒険を繰り広げながら大人になる、そんな名作の数々を生み出してきたディズニーの真価が、トイストーリー5で発揮されることを期待している。