高齢者は年老いたヤング

先日、「高齢者は年寄りの初心者」と書いた。高齢者は何かと能力が衰えるが、それに慣れてるわけではなく、気づくたびに驚いているという内容だったが、これを言い換えればタイトルのようになる。自分で書いててイヤな気分だが、われわれの若い時代・昭和は、まさに「ヤング」の時代だった。「青春」という言葉が乱れ飛び、若さの素晴らしさを聞かされて来た。若さは可能性、若ければいつかどんな夢でも叶うと。なんのことはない、団塊の世代を中心とした若年購買層に向けた販促メッセージに毒されていたわけである。

今は、「青春」という言葉はほとんど見かけない。若い人に「若いって素晴らしい」と言っても、「ブラック勤務のどこが?」と言い返されるかもしれない。酒を飲んで朝まで語り合う醍醐味を語っても、「それってネットでもできるよね」と言われるだろう。車離れ、未婚率上昇など、高齢者が若者に感じる違和感は、どれも高齢者が昔の基準で考えたヤング像と比べるせいで、彼ら自身はふつうに生きてるだけだ。

どうも高齢者がいつまでも若さにこだわると、良いことはないようだ。そこでいっそ高齢者も、年寄りを先取りしてはどうかと思う。杖をつき、和服にカンカン帽で、「ワシはこう思うのじゃよ」などという話し方をする。電車で席を譲られてショックを受ける前に、「すまんが腰が痛むので、席を代わってくれんかのう」と言ってみる。多分、若者たちの心遣いに触れることができるだろう。怪しげな「年老いたヤング」ではなく、社会が考えるような絵に描いたような年寄りになったほうが、彼らとの話も通じやすいような気がする。まあ、別に話が通じなくても、彼らには関係ないのだが。

高齢者は年寄りの初心者

なんだか意味不明なタイトルだが...

若い頃、お年寄りというのは体の衰えや体調不良に、長年慣れっこになっているのだと思っていた。そして不調や痛みなどを感じつつも、泰然と生きているところが高齢者の貫禄なのだろうと思っていたのだが。いざ自分が歳をとってみると、慣れどころか、日々新しい衰えを発見して驚いてるほどだ。

情けないことだが、不得手なことはそれほど衰えず、がんばれば新しい知識や技術を身につけることさえできるのに、長年鍛えた得意分野ほど衰えが来る。これは例えば、生涯一度も自転車に乗ったことのない高齢者でも、練習すれば乗れるようになることもあり得るが、往年の競輪選手が全盛期のスピードで走ることはできない。そんな感じである。ただし、全盛期のレベルが非常に高かった分野は、急速に衰えたとしてもまだまだ高いところにいることもあるような気はするが。

言い換えれば、年寄りの生活は日々目新しいことが起こる。実にエキサイティングだ。
「腰が痛くなってきたぜ、ワオ!」
「耳が遠くなってきたぜ、イエイ!」
てなもんである。

年寄りの初心者向け、若年寄マーク

コンディション

演奏のコンディションが良い日と悪い日がある。まるでアーチストのような言い草だが、実際は自分のような未熟なプレイヤーほど、コンディションの影響をうけるようだ。思ったとおりに次々と音が出て、この調子でうまくなればそこそこ行くんじゃないかと思う日もあれば、手も頭も回らず、やはり歳なのかと落ち込む日もある。そもそも時間はあるのに、まったくやる気が起きない日もある。
はじめは調子が悪かったが、止めたくなるのをこらえて続けてるうちに調子が出てくる。そういうときは、自分にも伸びしろがある感じがしてうれしい。なんとなく気分が冴えなかったのが、演奏しているうちに霧が晴れていくように頭がさえ、気分もリフレッシュ。毎回こうだと楽器の効用も絶大なのだが。

また、どうしても調子の出ないのは、気力や思考力などが低下している警報でもある。日常生活や仕事は、長年のことだけに多少コンディションが悪くても無難にこなせるので、コンディションの低下に気が付かないこともあるだろう。演奏が上手く行かない時は、他のことでもミスやアクシデントを招きやすくなってると思うことにしている。

ちなみに「演奏」と言っても、自宅で練習しているだけのことだが、なるべく「練習」と言わないことにした。たとえ観客もなく、だらしない普段着のままでも、楽器を手にした以上すべての瞬間が「本番」である。それは人生と同じだ。