”足裏”ではなかったが、「歩き」の血流促進効果は歴然

先日、歩くと楽器演奏が冴える話を書いた。血流がよくなって、頭まで血液が行き渡るためらしい。長い間、足の裏を踏み込むから血液を押し上げるのだと思い込んでいたので「足裏ポンプ」と書いたが、正しくは、ポンプの役割を果たすのは足裏ではなくふくらはぎの収縮らしい。ちょっとした勘違いだが、その効果はちょっとどころではなかった。

その後も何度か歩き回ってへとへとになる日があった。いつもなら座り込んで何もしたくなくなるが、あの記事を書いた手前こんなくたびれた状態でも脳が冴えているのか、バイオリンで試してみた。するとやはりぜんぜん違う。毎回同じ伴奏音源に合わせているので、ついていくのがやっとの日もあるのに、歩いた後では余裕をもって弾ける。

自分がいま冴えているか、ぼんやりしているのかは、実は自分で判断できないことなのだと思う。調子が良し悪しを判断する脳の性能が落ちていれば、本当はハイマーががっていても、オールオッケー、ノープロブレムと感じてしまうかも知れない。もちろん無理して楽器を弾く必要はないが、歩くかどうか大きな違いだと思う。

ここで世の高齢者に言いたい。歩かなくていいよ、窮屈に考えないで楽に生きようと。幸せへの道はそっちにあるかもしれないし。だが私は歩く。そして自分だけ冴えた年寄りになってやるのだ。

領海侵犯と領空侵犯

どちらもよく聞く言葉で、戦争が始まる一歩手前という印象を受けてしまうが、実態は自分が考えているものとは違うらしいことを最近知った。

まず領海侵犯という言葉はなく、メディアが作った言葉だそうだ。どの国の船も、それが例えば軍艦であろうと領海に入っただけで脅威だとは見なされない。問いかけに応答しないまま長時間領海にとどまったりすれば、海上保安庁の巡視船などに追い返されることはあるが、通り過ぎるだけ程度ならフリーパスである。
また、領海のど真ん中であっても、海峡は公海扱いなことが多い。津軽海峡や、トルコのボスボラス、ダーダネルス海峡などがそれで、国際海峡と言うらしい。船舶がSOS信号を受信したら国籍その他に関わらず救助の義務があると言うし、海の上には、国レベルの法律等以前の海の男の掟がある感じだ。

一方領空侵犯という言葉はある。領空とは領土・領海の上空だが、航空機の場合そこまで侵入されるとあっという間に都市などに着いてしまうし、核を持っている可能性もある。そこで、領空より遠くに防空識別圏を設定し、越えてきた航空機に対しそのまま進むと日本の領空を侵犯することを警告する。このときの自衛隊機は、警察や沿岸警備隊の職務の代行という立場なので、問いかけから始まって、引き返させたり着陸させたりする。警官の職務質問と同じである。これはどの国の空軍でも同じだそうで、警告射撃を行うことがあっても信号弾の代わりであって、攻撃ではない。もちろん撃墜などはできない。発砲して相手を撃墜できるのは攻撃を受けての正当防衛か、あきらかに住民を狙っている場合である。また、大韓航空機撃墜事件以後、どんな場合でも民間機を攻撃できない。これらはみな国際ルールである。要は、銃弾の一発や二発がきっかけで戦争が起こったりはしない。人類は、過去に何度も戦争を興してきたが、そのつど同じことは繰り返さないよう、国際社会も進化してきたということだ。

進化していないのはマスコミだ。新時代の国際ルールの周知と啓蒙に向けて社会をリードするというならともかく、領海侵犯などという言葉まで作り、不安をかきたてて100年、200年前の戦争当時さながらの未熟な世論へと、社会をミスリードしているように思える。

※9月23日のロシア機による領空侵犯では、防空識別圏に入ってから何度か意図的に領空の端をかすめてる。その間、自衛隊機が通告、警告をしていたはずなので、かなり挑発的だ。とはいえ、自衛隊機の行動はあくまで前述の通り警察の職務の代行なので、そのまま交戦したり、ましてや戦争になったりはしない。

防衛省「ロシア機による領空侵犯について」より

対立と分断

残念なことだが、長く生きていると、人同士、集団同士の対立は避けられないということが実感として分かってくる。対立の原因は人種、経済、居住環境、宗教、思想、生活格差などさまざまで、どの時代ももめごとの種は尽きないが、逆に言うとそれは人類誕生以来いつの時代のどの社会にもあったもの。対立がそのまま暴動や内乱、戦争の火種になるとは限らない。ほとんどの時代と国が、そこまで至らずに済んでいる。

なんだかんだ言っても現代は人口が増え続け、ネットで情報が共有される物心共に豊かな時代だ。救いようのないほど貧困や飢餓に見舞われていた国でも、今は都市化され人々にはスマホが行き渡っている。
私の世代の子供時代は治安が悪かった。記録に残るような大事件もだけではなく、表に出ない小さな犯罪や暴力が日常的に起こっていて、その中で子供であることはそれなりの覚悟や用心が必要だった。なので、社会が豊かになるにつれて治安が良くなってきたことが実感できる。それだけに、豊かであるはずのアメリカやヨーロッパで暴動や略奪が日常的に起こっていることに、違和感があった。

北大スラブ研、松里教授の「ウクライナ動乱」を読んだ。この中で、長年ウクライナで繰り広げられてきた対立と分断について、下記のような図で説明されていて、非常に納得が行った。

社会の中に対立するネタがいろいろあっても、対立軸が交差している場合は社会全体が分断するまでいかないが(左)、対立軸が揃ってしまうと大きく分断されてしまう(右)、という図である。

これはなるほどと思った。左図の状態では7つのブロックができていて、例えば人種という対立軸があっても、人種は違うが宗教は同じというような隣り合ったブロック同士の関係は9箇所も出来ている。もめごとはあっても大きくなりにくい関係だ。これに対して右側は、見たとおり社会は2つに分断されてしまっている。

だから右の状態に陥っている原因を、「異なる宗教信者同士の対立」というような、ひとつの対立軸だけで説明するのはおかしなことになるだろう。