AIチャットのコツ、みたいなものについて

いま、さまざまな分野でAIが利用され、成果をあげているものも、無理に使わなくてもと思うものもある。中でもチャットは文章作成などと比べて、データセンターのリソースをかなり使うらしい。その分ユーザーにとってはコスパのいいサービスだとも言える。そこで、AIとのチャットでユーザーの質問内容の専門性やユニーク度と、セッションの有用性を比べて、直感的なグラフにしてみた。

まず❶は、ユーザーが精通している専門分野や、非常にユニークなアイデアについて問うた場合。これについては、AIはあまり助けにならない。答えが常識的すぎて、せっかくのユニークさを補強してくれない場合がある。特にAIの返答は説得力があるので、会話が凡庸な結論に引きずられていく恐れがある。

それに比べて❸のように、ユーザーの知識が不足している分野については、有用な情報が返ってくる。特に名称のわからない概念について調べるというような、検索エンジンでも難しかったことが簡単にでき、情報不足があっという間に補われる。ただしこれはあくまでユーザーが知らなかっただけなので、発見といえるほどではないこともある。

注目したいのは❷のような、一般常識からそれほど離れない程度のユニークなアイデアについて問い掛けた場合。AIの返答が常識的な情報であることは変わりないが、アイデア実現の可能性を高めるような情報が返ってくることが多い。例えば類似アイデアが商品化されているかどうかは、検索ではなかなかわかりにくい。また関連する情報源や、具体的な問い合わせ先、関係官庁の窓口など、ユーザーが気がついてないが実現化に必要になる情報を、提案してくれることもある。中にはAI独自のウソ(ハルシネーション)もあるようだが、もともと内容に責任を負わないブレーンストーミングのようなものだと思えばいいのだ。

AIとのチャットは、❶のように、特許になるくらいユニークな情報には向かないが、❷のような実用新案的なアイデアに関するセッションは、有用かもしれない。熟練のキャッチャーのアドバイスを受けているうちに、次第に豪速球が投げられるようになるというような、知のキャッチボール体験ができることもある。ちなみに、こちらの問いの後に、システムから”よりよい答えのために考え中”というような表示が出たり、返答が有用だったかどうかをたずねてきた場合は、図中❷の創造的で有用なセッションだったと、個人的には思うことにしている。

AI前提社会

ミスター・インターネットと呼ばれた慶応大の村井純氏は。かつて「インターネット前提社会」が訪れると言っていた。何をするにもネットが大前提な社会になるということだが、自分もその恩恵に預かりつつも、そこまで社会変革が起きるかは疑問だった。だが、現代はご存じのとおりである。
同様に、AI前提社会は訪れるか、あるいはもうそうなっているのかを考えている。AIもまた幅広い分野で活用できそうだが、真に活用できるのは、体系立って蓄積された自社データを学習させられる企業だけで、小規模経営や個人は、それほど必要でもないものを使わされることになる気もする。そのへんを見極めたくて、しょっちゅうAIをいじってる。

社会を変革させるような新たな「前提」は、これまで何度も登場してきた。そして多数の人を巻き込み、それぞれの立場や取り組みに応じて、毒にもクスリにもなってきた。大変革は慣れるしかないが、「コロナ前提社会」だけは勘弁してほしかった。

AIが蔓延する前に、免疫をつけておくのは悪くないと思う。

日本刀のはなし

日本刀といえば、美しさや切れ味などが世界的に知られているが、昔は、そういうのとはちょっと違う、リアルな使い方などの知識が伝わっていた。例えば、今はあまり見かけないが、昔の映画では、チャンバラの後、懐紙で刀身を拭うシーンが必ずあった。やりすぎて紙吹雪のように撒き散らすものもあったくらいだが、もし拭かずに血脂のついたまま鞘に入れたら刀が台無しだ。鞘の内側が汚れれば刀を戻せなくなるし、外の漆や蒔絵などを削り落として分解掃除もできないので、最悪鞘の作り直しである。

映画ではさっと拭いて納刀するが、実際にはゴシゴシこすり落としただろう。できれば抜き身のままで家まで持ち帰って、丹念に磨いたかもしれない。なので主人公が襲われた時、刀を抜かずに棒切で対処したり峰打ちにしたのも、雑魚あいてに面倒な刀の後始末をしたくなかったからとも考えられる。自分ならそうするだろう。

刃がついてるから鞘が必要なら、刃のないものを鞘なしで帯に挿して持ち歩けばいいというのが「十手」だ。十手は町奉行所が誕生するずっと前からある普通の武器。江戸時代は古物商で普通に刀が売られていて町人でも誰でも買えたし、町道場にも武士以外の門弟が大勢いた。なので犯罪も身分を問わず刀を振り回す者が多かった。同心や与力が、それらを相手にするのに刀より便利だから使っていたもので、身分証ではない。町方は派手な黄八丈の着物を着ているので、十手を見せなくても誰にでもわかったはずだ。鬼平こと長谷川平蔵の十手はカギ部分がなく、丸い小さな鍔がついていたらしい。こうなると刃と鞘のない刀そのものだ。

日本刀はけっこう曲がったらしいが、そういうときは柄頭を紐で結いて、天井から吊るしておくのだと聞いた。また表面がきれいに磨かれていると、刃の先端が正確に当たらないとそれてしまう。ナイフや彫刻刀の怪我で、力が入っていた割に表面の皮が削がれただけだったとか、ノコギリはざっくり食い込むので傷がひどかったという経験があるかもしれないが、それと同じだ。なので合戦前には、砂の山を作って何度も刀を差し入れ、刃をノコギリ状にし、側面にもヤスリのような細かい傷をつけて食い込みやすくした。これを「ねた刃をつける」と言った。
日本刀は芯材の硬い鋼の周りを柔らかい鉄でくるんであるから、強さと切れ味を兼ね備えていると言われるが、柔らかい鉄だけで作ると切れ味だけは抜群になる。村上水軍の刀は、芯材を入れずに分厚くして強度を増し、船上で振り回しやすいよう短めに作られていたという。それも水軍の本拠地で量産していたようだ。歴史は、奉納刀として作られ今に伝えられるような銘刀ではなく、実戦の知恵が盛り込まれた雑駁な刀によって作られたのかもしれない。