日本が飛鳥時代だった645年、中大兄皇子と中臣鎌足が、当時天皇をもしのぐ権勢を誇っていた蘇我入鹿を暗殺するという事件が起きた。これを乙巳の変(いっしのへん/おっしのへん)という。
あれ、それって「大化の改新」じゃないの?645年という年号も覚えている人も少なくない、いわば常識中の常識だが、今は違うのだそうだ。大化の改新とは、646年以降に中大兄皇子が行った政治改革のことを指し、645年のクーデターは乙巳の変というふうに、学校でも習ってるそうだ。ちなみに、「乙巳」というのは「ひのえうま」などと同じ十干十二支による年号の呼び方で、「きのとみ」へび年であったという意味。同じ言い方で言えば、今年2018年は「戊戌(ぼじゅつ/つちのえいぬ)」。
なんとなく人生のうちの数十年間を、ちょっとだけ棒に振ったような気分だが、この際覚えることにした。今さら何の役にも立たないだろうし、明日には忘れてるかもしれないが、忘れたら調べ直してでも、古い脳みそに新風を吹き込もうと思う。
ちょんまげも剃り込みも理由があった訳ですね。単なるファッションではなく、機能的な髪形だったとは知りませんでした。しかし、いくら身を護るためとは言え、みんなが人切り包丁を腰に差していた時代が現実にあった訳ですからね。今では8cmのナイフでも銃刀法違反ですよね。
歴史は得意ではありませんが、日本も神々の代まで遡れば、むしろ超近代的なファッションでしたね。それが時代とともに日本特有の着物や、ちょんまげに変化して流行が逆行しているようですね。刀剣にしても戦国のある時期までは上弦のように逆に反った帯刀の形から、江戸時代の剣術では下弦のような帯刀の形に変化していますね。これらのファッションの推移は公家と武士の権力のバランスの変化でしょうか。太古のファッションや儀式の名残は、神社や祭りや宮内庁行事や雅楽に、わずかながら今も残されていますね。白砂のお裁きをする大岡越前の守などとなれば裃にしても裾を踏んずけて決して機能的とは言えない華美すぎるファッションですね。現代のファッションは神々の時代に似て来たようにも思えますね。いや?むしろ意識的に遡っているのかも知れませんね。
大昔、逆に帯刀していたのは馬の上で抜きやすかったからで、その後そういう戦法が無くなったので、歩行中に抜きやすい挿し方になったそうです。また、源平時代の兜はてっぺんに穴が開いていて、そこから束ねた髪の毛を通して出すことで、しっかりと固定されるようになっていました。五月人形にもそういう兜があありますし、合戦絵巻では武士の兜のてっぺんから長い毛が出ています。また、兜の内側にはドーナツ状のショックアブソーバーがありましたが、髪の毛があるとズルズルとずれてしまうので、頭の上だけ毛を剃ってピタッと接触するようにし、後ろの髪は兜を通さないときはまとめておく、いわゆるちょんまげになりました。元服の時に残しておいた前髪を切るのは、それで兜を被れるようになるという意味です。志村けんのバカ殿の髷は「茶せん髷」と言い、兜を被るときに穴から髪を出しやすい。それが転じていつでも戦うぞという「武闘派」のPRポイントでした。あまりに好戦的なので、江戸時代になってから禁止令が出たそうです。確かにバカ殿もすぐキレてましたね。