島松駅逓所は、国指定の史跡だ。個人の民家でも文化財級が残っている本州からすれば、ちょっと大きめの小屋くらいにしか見えないかもしれないが、史跡としての価値はなかなか高い。前回紹介した時には、明治政府によって維新後に他の駅逓所と一緒に作られたように書いてしまったが、島松は江戸時代に松前藩によって建てられたものだ。
松前藩といえば江戸時代は蝦夷地を領有していたから、いわば他県でいえば「地元のお殿様」なのだが、札幌などではそういう意識が低く、9カ月だけ滞在したアメリカ人のほうが圧倒的に知名度が高い。関ケ原だの田楽狭間というような猛々しい話が伝わってないからだろうが、決して激動の日本史の蚊帳の外でのんびり続いていた藩ではない。維新の際には、当初奥羽列強同盟に属して新政府に反旗を翻したが、その後内部対立を経て新政府側へ寝返ったりしている。なかなか大変だったのだ。
さて明治になって島松駅逓所は、寒冷地稲作の祖と呼ばれた中山久蔵が取扱人となり、明治14年の天皇行幸の際には行在所(あんざいしょ/天皇の休憩所)に改築された。明治天皇といえば、維新の際には17歳の若さだったという。歴代天皇と違いひげを蓄えた肖像が知られているが、若く見られたくなかったのかもしれない。それまで諸藩の集まりだった日本が中央集権国家に生まれ変わった象徴だけあって、何度も全国へ行幸を行っている。しかも「明治天皇御巡幸記」などを見ると、けっこう過酷なスケジュールだ。とりわけ島松にも立ち寄った明治14年の行幸では、青森から悪天候をついて戦艦「扶桑」で出港したが、途中難破船に遭遇し、乗員を救助したりしている。無線連絡もない時代、小樽港で待ち構えていた開拓使長官の黒田清隆などがやきもしきていたという記録がある。みんな、なかなか大変だったのだ。
鯖江は私が住んでいた村から列車で3駅目でした。子供の頃、隣のお婆ちゃんに頼まれて一人で列車に乗ってお使いに行くのが楽しみでした。武家屋敷などもありました。今では家内工業の眼鏡枠で世界的に名を知られるようになりました。あの小さな町でも世界一を持って居るのですから感心です。それも小さな個人経営の集まりですからね。
鯖江市は、インターネット全体の運営を考える、国際公式フォーラムのメンバーになっていたと思います。ネットで見ると、陣屋や武家屋敷が残る古い町並みが印象的ですが、札幌などよりオープンデータではずっと進んでいる感じです。誰か先見の明のある人がいるのでしょうね。
北海道民の方々は本州の歴史に詳しい人も意外に多いですね。本州に居た私たちは足元に史跡が転がっていたのに何も興味を持たずに過ごした事に、今になって反省です。北海道は開拓後の歴史は浅いとは言え、本州には無い面白さがありますね。全国各地の風習や祭りがあちこちに遺されていたり、外国人の影響でか洋館建て建築が多かったりと、むしろ社寺仏閣ばかりの本州の歴史に比べれば、私たちには興味深いものばかりです。と言っても、我が家から近い島松には久しく行っておりません。これも余りに身近だからでしょうね。
本州で地域の歴史を調べ始めたら、キリがないんじゃないでしょうか。今はインターネットのおかげで調べやすくなりましたが。以前は仕事で各地の郷土資料館などを取材してましたが、今のネットの方がはるかに情報は多いです。昔だったら研究者にしか見せないとか、各地を回って探し集めなければならなかった史料が、無数に公開されてます。情報公開については、意外な市町村が頑張っていて、例えば福井県鯖江市は、情報公開施策が世界的に東京などよりもずっと高く評価されています。