レトロ補聴器(Ear trumpet)を作ってみた

ある夜、白髪白ひげの神様っぽい老人が夢枕に立って言った。
「お主も良い歳になった。これからは静かで落ち着いた暮らしをさせてやろう」
その日を境に、だんだん耳が遠くなり、うっとおしい話は聞こえてこなくなった。さすがは神様である。

さて、補聴器は高いうえに小さくて、紛失するのが目に見えている。肌色をしているのも、シークレットシューズのようで潔くない。しかも父が使っていたが、しょっちゅう他人にも聞こえるほど大きなハウリングを起こしていたので、どうも抵抗がある。

そこでエレクトロニクスのない時代の人はどうしていたか調べたら、イヤ・トランペットという集音器を使っていたらしい。これは何とも優雅で、しかも耳の悪さを隠そうとしないところがいい。なので自分で作ってみた。オリジナルは真鍮製らしいが、発泡スチロールで型を作り新聞紙と和紙を貼り付けた。いわゆる張り子、格好良く言うとパピエ・マシェであるが、接着剤に木工ボンドを使い仕上げにアマニ油を塗って硬化させたので、出来上がりは薄くても非常に硬くなった。プラスチックか硬めの木材くらい硬いので、素材としてはリコーダーやクラリネットび近いと思う。ただし張り子なので表面がややでこぼこしている。管の内面だけでも下地材を塗って磨いたほうがいいかもしれない。
使用感はかなりよく、相手の話だけでなく周囲の音もよく拾ってくれる。少し音色が固くなるので、なお聞き取りやすい。もちろん使うときは対話相手を選ぶ。何歳になっても好奇心やユーモアのある人相手に限っている。

開発の道程

初期型/とりあえずトランペットのベル部分のカーブをまねてみた。聞こえはまあまあ。
管楽器のように、管長が長いほうが良いのではと考えたもの。が、聞こえは悪くなった。ベル部分の口径を小さくしたのも失敗。
デンマーク(?)の郵便配達のラッパ型。ベル部分を大きくしたが、曲がった管を通るうちに音が減衰するようだ。
模索を続けているうちに、ネット上で旧日本軍の「九〇式大聴音機」の画像を発見。敵の飛行機の接近を音で知る装置で、トランペットに比べ、ベル部分がなだらかなカーブを描いている。鳴らす音と聴く音は違うらしい。この形を参考にすることにした。

最終形態。初期型のベル部分を変えてみたら断然聞こえが良くなった。ただしデザインはこれまでのほうが良かったと思う。

イヤトランペットの型。発泡スチロールで大まかに作り、新聞紙や粘土でなめらかに仕上げたもの。この上にラップを被せ、木工用ボンドで新聞紙や和紙を貼り重ねていく。ボンドは固まった後でも、ラップのところからきれいに剥がれる。

※試しに、ホーン部をどういう形状にすれば集音効率がいいか、ChatGPTに聞いてみたら、「パラボラアンテナ」と言われた。確かにその通り。なぜ気が付かなかったと思うが、「耳が大きくなっちゃった!」というのと同じで、ちょっと格好悪いなあ。

永平寺問答

福井県の永平寺で、修行僧が体験修行中の女子高生のおしりを触る事件があった。メディアは神聖な場所で何事だ、寺は責任を取り、犯人は追い出してしまえと言わんばかりだ。さて、面白いことになったと思う。

永平寺の山門(正面入口)には、「葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず<生臭物や酒を持ち込んではいけない>」という掲示がある。では、こっそり酒を飲んだ修行僧はどうなるか、追い出されるか、程度に応じて罰を受けるのか。実はこの問いに考え込んでしまうのは現代人だけで、江戸時代の人間なら、だれでもすぐ答えられた。
「そういう輩のための修行の場だろう」と。

仏教の修行場は、品行方正な人間を集めて何かをするところではなく、煩悩にまみれた者を真の仏教徒である僧侶に育てる場だ。なので江戸時代なら、女性が参拝以外で入ることはできないから、まず同じような問題は起きない。修行途中で煩悩まみれの若い男たちのなかに女子高生を放てばどうなるかわかりきってるからで、そういうのを「知恵」と言った。しかも初歩的な知恵で、仏教の知恵はもうちょっとハイレベルだ。でも現代なら男女同権がどうとかで、女人禁制にはできないだろう。そこで公式謝罪がどうの、刑法がどうのという話になりかねない。そういう状態を「知恵が回らない」と言う。
さらに江戸時代なら、起きたとしても、寺がより一層修行に専念させるといえば、相手も納得する。僧侶に対するリスペクトがあるからだが、伝統的な仏教文化なんぞクソ喰らえの時代に、果たして永平寺はどう答えるか。さらに言えば、煩悩まみれの現代人はどこで修行すればいいのか。現代版禅問答は、なかなか難しい。

呪術開戦

タイ、カンボジアの紛争が、驚きのスピード停戦となった。だがカンボジアは呪術師を使ってタイに強力な呪いをかけ、タイもまた呪い返しを行うという、超自然レベルでの戦いが始まったそうだ。戦争よりずっとマシだから、「どちらも頑張れ!」である。

さてその昔、本物の呪術師に教えを受けたことがある。ガーナ人の伝統的なドラム奏者、アジャ・アディが、渡辺貞夫のツアーに参加中、地元でワークショップを開いてくれたのだ。アジャはドイツなどでも演奏活動を行っているが、ガーナでの立場はメディスン・マン。薬師のように聞こえるが、太鼓や祈祷などで病気を癒す祈祷師、呪術師、シャーマンである。教わったのはドラミングの基礎だけで、ガーナ国外では超自然の力は働かないと言っていた。そう聞いて安心なような、少し残念なような気がしたものだ。

呪術による治療など時代遅れに思えるが、今では保健も適用される漢方や鍼灸治療も、かつてはまじない同然に思われていた時期がある。さらに患者へのメンタルケアの効用など、「病は気から」の重要性も高まっている。魂を揺さぶるドラムの演奏が、病気のケアに有用であっても不思議ではない。へんてこ健康法に傾倒するのも良くないが、治るならなんでもいい程度に考えるのは、悪いことではないはずだ。

さてさて、アメリカの戦略国際問題研究所のシニア・アドバイザー、エドワード・ルトワックは、「戦争にチャンスを与えよ」という挑発的なタイトルの著書を書いた。地域の紛争に外国が支援や保護をすると、かえって長引いたり難民キャンプがテロリストの再生産の場になったりする。何千年にも渡って受け継がれてきた、地域には地域の解決法があるはずだから(それが紛争だとしても)それに任せよう。要するに放っておこうという内容だ。最近のアメリカのウクライナやイスラエルへの対応には、そんなそっけなさを感じることもある。そのせいかウクライナも、戦うのは自分たちでやるので、武器弾薬、資金面で助けてくれとしか言わない。

これは日本人も気にしなければならないところだ。台湾問題に巻き込まれたら、アメリカは駆けつけてくれるかという議論があるが、そりゃあ無理だと思う。「何千年もの歴史ある国同士なのだから、伝統的な紛争解決策があるだろう」と言われるだけだ。そうなると自分たちで戦うから、せめて武器と資金だけでもとしか言えないだろう。なんとか、陰陽術対仙術での代理戦争でお茶を濁せないだろうかと思う。