対立と分断

残念なことだが、長く生きていると、人同士、集団同士の対立は避けられないということが実感として分かってくる。対立の原因は人種、経済、居住環境、宗教、思想、生活格差などさまざまで、どの時代ももめごとの種は尽きないが、逆に言うとそれは人類誕生以来いつの時代のどの社会にもあったもの。対立がそのまま暴動や内乱、戦争の火種になるとは限らない。ほとんどの時代と国が、そこまで至らずに済んでいる。

なんだかんだ言っても現代は人口が増え続け、ネットで情報が共有される物心共に豊かな時代だ。救いようのないほど貧困や飢餓に見舞われていた国でも、今は都市化され人々にはスマホが行き渡っている。
私の世代の子供時代は治安が悪かった。記録に残るような大事件もだけではなく、表に出ない小さな犯罪や暴力が日常的に起こっていて、その中で子供であることはそれなりの覚悟や用心が必要だった。なので、社会が豊かになるにつれて治安が良くなってきたことが実感できる。それだけに、豊かであるはずのアメリカやヨーロッパで暴動や略奪が日常的に起こっていることに、違和感があった。

北大スラブ研、松里教授の「ウクライナ動乱」を読んだ。この中で、長年ウクライナで繰り広げられてきた対立と分断について、下記のような図で説明されていて、非常に納得が行った。

社会の中に対立するネタがいろいろあっても、対立軸が交差している場合は社会全体が分断するまでいかないが(左)、対立軸が揃ってしまうと大きく分断されてしまう(右)、という図である。

これはなるほどと思った。左図の状態では7つのブロックができていて、例えば人種という対立軸があっても、人種は違うが宗教は同じというような隣り合ったブロック同士の関係は9箇所も出来ている。もめごとはあっても大きくなりにくい関係だ。これに対して右側は、見たとおり社会は2つに分断されてしまっている。

だから右の状態に陥っている原因を、「異なる宗教信者同士の対立」というような、ひとつの対立軸だけで説明するのはおかしなことになるだろう。

米不足と日本のタブー

スーパーから消えたことで、普段は気にかけない米についていろいろ考えた。
自給率を100%にせよという意見をよく聞く。自給率100%ということは、不作などで99%に減った時は、1%の人は我慢しろということ。海外から買えば良いというのは20世紀の考え方で、現在輸出するほどの生産力のある国でも、販売のあてのない生産のために農地を用意し、労力、農薬、肥料などにコストを掛け、貯蔵費をかけて漠然と在庫しておくことはできない。つまり、全品売約済みだ。いざというときに泣きついても、ひと粒も手に入らないかもしれない。

そこで日本はたとえ100%自給できても、さらに常時輸入しておくべきだということになる。余った分は海外援助に使ったり、海外に売ることになる。そこで買い付けた国に売れば、双方にとって輸送などのコストが削減されることになる。現地の日本国所有の倉庫に備蓄しておけば、好きな時に誰はばかることなく持ち出せる。さらに言えば、買ったことにすれば倉庫費用もかからない。
そこまで考えたら、一種の権利の買付けや買い戻しのようなものは、既に行われているのだろうなと思い至った。結局ひと粒も輸入しなくて済み、差損が出たとしてもそれは安全保障上必要なコストとなる。その分が食糧輸入率に算入されているかどうかはわからないが、計算し直してみると面白いかもしれない。多分、米不足どころかまだまだ飽食・メタボな状況が浮かび上がるのではないか。

ちなみに日本のタブーというのは、自給率ではなく、もっと恐ろしい話...つまり米は太るという話だ。最近、人間は60歳くらいまで基礎代謝があまり変わらないという説を知った。中年になって太るのは、代謝が減ったからではなく、ただの運動不足と食べ過ぎということだ。
米を中心にした和食は健康的と言われているが、それは一汁三菜、鮭の塩焼きにワカメの味噌汁、おひたしや漬物などで食べてた場合の話で、ハンバーグにドレッシングをかけたサラダ、ポタージュスープでご飯をお代わりしていれば、太らないはずがない。齢をとり食が細くなり、さらに米不足になってようやくそのことに気がついた。青少年時代に比べて運動量が激減しているのに、満腹感でストレス解消。それはそれで生きるために必要なことだったかもしれないが、そうなると脳みそが敵に寝返った状態なので、「和食は太らない」を「米食は太らない」「ハンバーグと食べてもOK」に自分でミスリードしてきた。ちょっと考えればわかる理屈を、見ないようにしてきたのかもしれない。

9月18日、中国深圳市の日本人学校に通う10歳の小学生が襲われた。痛ましいできごとだと思う。何かできることはないかと考えてみた。

さて日本は法治国家なので、子供を襲撃すれば理由の如何を問わず罰せられるし、そのことは法律として周知されているが中国は違う。何かをやってそれが為政者の不利になれば処罰、有利に働けば称賛される。そんなあやふやな基準でうかつなことはできないので、多くの中国人は政治に関わらないように生きているが、一方、為政者の称賛を勝ち取ればその後の栄達が約束されるので、上の意を汲んだつもりで愚行に走るものも出てくる。中国は諸子百家の偉大な思想家を生んだ国なので、子供を襲撃しても良い思想などないことははっきりしている。思想信条や義憤ではなく、利を求めてのことだ。

今回の凶行は、為政者にとって不利に働かなくてはならない。この点東芝はいち早く社員家族を引き上げさせ、世界に対して子供にとって安全な国ではないことを示した。家族を預けても良いほど信頼関係があった相手から突きつけられた不信に、為政者は面子を傷つけられた。そしてこの状況を放置すれば、世界が見る目が変わってくる。月面飛行もIT技術の発展も、色付きで評価されることになる。犯人やその後尻馬に乗って不快発言を行った知事の運命は決まったかもしれない。

メディアは、9月18日は1931年に旧日本軍が柳条湖(※)事件を引き起こした日だから小学生が襲撃されたのだという。たとえ我々が生まれてもいない時のことであれ、歴史は歴史として忘れてはならないことだから、私も当時の中華民国、現在の台湾の人々の心情には心を砕くべきだと思う。そこで、私にできることは少ないが、ブログには予約投稿機能があるので、来年の9月18日付けでこの事件に関する記事を予約投稿してある。

※今は、柳条溝(りゅうじょうこう)事件ではなく、柳条湖(こ)事件と言うらしい。いずれにせよ昔の出来事であっても現代社会に影響をおよぼすというなら、絶えず新しい情報を付け加え、上書きされていくべきなのだろう。